2021.07.16
ここに書くことをすっかり忘れていた。すごく戸惑いながら恐る恐る書いている。
日記のようなものを書くことは嫌いじゃないし、この年になって物忘れがひどく
前日のことはとくに忘れやすくなってきている。ちょっとした事件が起きた日なんかは
努めて書き留めようとしているくらいだ。
紙に書く日記は別としてこのパソコン上に書き残すのは何のため?といつも思う。
日記なら自分のためなんだけど、なんか自分以外の読み手を意識してしまう。
いやはっきりと他人の目を意識してるね。
今日はというとやはり久々の近況報告ということになるから、やはり自分に書くというより
他人の誰かにだな。特定のあの人に読んでほしいという人はいない、
あえてもう一人の自分へとしておこう。
もう一年半になるが、妻が脳梗塞に倒れた。
結婚してずっと東京と岡山の別々の生活をしていた我々だったので少々慌てた。
いつかどちらかがこうなって今まで通りの生活はできなくなるだろうと
軽く覚悟はしていたがそれでも大きな転換期が来たんだな。
仕事もそういう時に来ていたかもしれない。
経営に参加したり顧問をしてたりしていた会社を辞めるきっかけとなった。
案外せいせいした感じだった。その会社の仕事も好きでずいぶん働いてきたが
変に未練を残さずいいタイミングいい形で身を引けたと思う。
その後は本分の個人のお付き合いのあるクライアントのコピーライター、
ディレクションの仕事はいままでどおりにやらせていただいているからラッキーだ。
今では岡山に3週間、東京に3週間という感じで行ったり来たりしている。
人の繋がりというものは不思議でそうこうしていると岡山の企業や
制作会社との出会いもありクリエーティブの仕事に参加できたり、
思った以上に快適な日常が生まれつつあるね。
妻も少しリハビリに苦労はしているようだがまずは回復に向かっており、
今のところだけど新しい生活は案外気に入っているのだ。
しばらくは会社は東京、住所は岡山ということです。
2020.02.23
一番恐れていたことが起きてしまった。この正月は岡山の方で過ごすことになり、なにか嫌な予感がしていたがその通りになってしまった。
我々夫婦は結婚してから同じ屋根の下で暮らしたことがない。子どもができてからもずっと別居してきていて、その事自体はもう当たり前のことでそれが我々の生き方になっている。むしろ2、3日でも一緒にいようものなら調子がおかしくなるくらい、そんな我々でも最近の正月は一緒にいることが多い。
若い頃は仲間とゴルフでハワイに行ったりタイに行ったりして、親戚家族が集まってくるときでさえ、自分はそこにいることは少なかった。それでも最近は娘も亭主と連れ立ってきたり、集まればぎこちなくてもそれなりに家族っぽいことはやっていた。娘夫婦も東京在住だから正月はボクの麻布のうちで過ごすことが多くなっていたし、今年もそのつもりだった。なのに、飼っている猫の体調が悪いから心配して岡山にいたいと家人が言うものだから、ボクが岡山に帰ることになった。東京で働き始めてもう50年以上になろうかというのに、岡山には行くじゃなくて帰る、そういう感覚なんだ。
その猫はほんとうに皆にかわいがられていた。サクラという名の野良なのにキュートなルックス、で行儀はといえば野良らしくすこぶる悪猫。顔が良ければ何でも許されるというのは人間だけじゃないんだね、他のどの猫たちよりもえこひいきされていた。そのサクラが家人の必死の看病の甲斐もなく、3日の日の明け方にあっさり亡くなってしまって。
火葬が終わってボクは東京に戻り(あっ東京にも戻るなんだなあ)、ふだんの生活が始まったと思ったら、今度は家人が倒れてしまった。一番恐れていた脳梗塞ってやつだ。こいつが先にボクに来るか、彼女に来るか、ずっと恐れていたことだ。12年前に彼女は大病を克服している。日本でも症例が殆ど見当たらないという食道の小細胞癌というとんでもない病だった。その時はボクはただうろたえていただけでほんとうに何もしてやれなかった。必死で戦っている彼女のそばにろくにいてやれもしなかったし、復帰後も満足なサポートもできず、最低だった。だから、次に彼女になにかあったら東京の生活を畳んで彼女と岡山で生きようと覚悟していたから、ついにその時が来たのかと。
今回も彼女はすごかった。朝起きてトイレに行こうとしたら思うように立ち上がれず、すぐタクシーを呼びかかりつけのクリニックに行ってくれと言ったら、あまりにもろれつが回っていなかったので運転手さんが機転を利かせてくれて大学病院の方がいいとそっちへ運んでくれたというのだ。タクシーの運転手さんに感謝だが、自力で行動した家人には頭が下がる。ボクだったらどうだろう。さらに病院に着いて自分でボクに電話してきた。喋りがおかしい、どうしたんだと言うと、平然としてこれから入院するとだけ言って電話を切った。何が何だか分からないでいたボクに病院から電話があったのはその2時間もあとだった。事情がやっと飲み込めた、というか大慌てでボクは羽田に向かい、岡山に着いたときは日も暮れていた。
岡山大学の大学病院のベッドには呂律は回らない、脚は立たない、箸も持てない家人がいた。でも、わたしは脳梗塞なんかじゃないから早く家に帰りたい、いついつには友人たちと食事会があるから行く、などと当たり前のように言う。すごい人だなと思うしかない、こういう女性と夫婦なんだなと妙に感心する、こういう人に何十年も夫婦でいて人間として育ててもらったんだ、もっともっといっぱい自分だけがわかる娘や親にもわからない、ましてや他人にわかるはずもない奇妙で複雑ででも納得がいくおもいが頭の中を一気に駆け抜けていった。納得いくまでそばにいよう。
2019.09.17
またまた久しぶりだ。ここに帰ってくるのはけっこう難儀なことなんだ。
日々にちょっと気になることはサラッとスマホのメモに残していたりするから余計ここにに来るのが疎かになるのかもしれない。
ほんと筆不精になってしまって。長文が全然へた。今こうしているのも連休あけの昼下がりにぽかっと
時間が空いたからで、べつにその気があったわけじゃない。
自分の今を見つめ直すためにもここに書き留めて置かなければならないことがあるはずだけど、ついさぼってしまう。だからその都度その都度始めるという感じで継続性がないから余計にだめ。これじゃ、KEITAさんに無理言ってデザインをしてもらった意味がないな。
吉田臣さんが亡くなった。ボクより3つ年上の75、いやまだ74歳だったか。
それが早いのか遅いのか。今の時代感覚ではなんともわからないけど。
人の命の終わりのタイミングなんてあるものか。
自分とほぼ同い年で一時期ではあれごく近くにいた人が死んだとなると
穏やかでいられない、頭の中ぐるぐるしてなんともなんとも。
通夜、葬式の案内を受け取ったときも空虚、空白。へ、なんだ、なんだ、
なんだ、と真っ白でしばらくポカーンとしていた。
臣さんいい人だった。互いに30代だった頃、小学館のビッグコミックの
電車の中吊りポスターを一緒に作っていた。彼がデザインでボクがコピーで。月に2本。楽しい仕事だった。ボクはそれをアルバイトでやっていて、
お金が溜まったら仲間と外国の海へ年に2回はスキューバダイビングに
行ったりしていた。4〜5年は続いたかな。
なんともいい時代というか、おおらかな時代だったな。
彼のアートは大胆で繊細だった。ビッグコミックの漫画の主人公が本作以上に弾けていた、と言ったら漫画家の先生に叱られるかもしれないけどね。
西武百貨店が全盛期の頃の新聞広告のデザインも好きだったな。
仕事だけでなく、よく一緒に遊んだ。初めて台湾行ったのも臣さんとだった。
いつもニコニコしていて、怒るところは見たことないね。
年下のボクが言うのも何だけど人間性が素晴らしかった。
かなり遅い結婚をされて、その後は仕事もプライベートも付き合いも
減っていて、とくに最近のことは知らなかったんだけど。
通夜で息子さんがデザイナーとして成長され会社の後を継がれていることも
初めて知ったくらいで、ご無沙汰してしまっていた。
いろんなこと思い出す。青山のspiralも一緒の仕事だった。
門外漢のスペース開発のコンセプトづくりのようなものやネーミングやらを
ボクが担当して、臣さんがアート・ディレクションして、スタジオマッセルの林田さんがプロデューサーだった。このワコールの文化事業を
担当させてもらったことが後々のボクのクリエイティブな仕事の道しるべに
なり、大きな宝物となった。だからこのときの仲間には心から感謝している。spiral立上げの仕事が評価されて二子玉川高島屋の再開発の話もいただいた。ボクはこの2つのクライアントとは現在はとくに仕事をしていないが、
臣さんはずっと関わり続けていた、ということを通夜のときに知った。
この時なんか自分の至らなさというものを思い知ったね。
一緒にした仕事なんだけど最後まで必要とされていたのは
ボクじゃなかったということ。自分はいつも新しい仕事を追いかけていって、それなりに世の中に発信してそれなりに成果をあげ、納得していたつもり
だったけど。30年以上も続けられている臣さんには及ばない。
そいうことなんだよ、と自分に言い聞かせる。
2019.04.07
今年はじめての台湾だった。少し間が空いた。
もっと通いたいと思っている。
故郷の岡山から台北にLCCが毎日飛ぶようになって、
東京ー岡山の新幹線代と変わらない料金だし、
昨年後半続けざまに2度行き、そしてけっこうハマった。
岡山には何年か前に仕事ができてから月に一度は帰っている。
以前から故郷で仕事をしてみたいと思っていたので
話をもらったらすぐに飛びつき、さらにもっとやれそうだなと、
勢い余って打ち合わせ場所に小屋まで建ててしまったんだが、
家なんか作るのははじめてのことなんで完成度イマイチで、
やや憂鬱。ちょっと軽はずみにやりすぎたかもしれない。
家は3回建てて初めて思うようなものができるとはよく言ってくれた。
それでもオーディオを凝ってみたり、ちっちゃな庭でも草でも
生やしてみたりしてはいる。もともと細かいことを緻密に追える
タイプでもないから、さらに金をかけて後悔の上乗せになるかもだ。
そうそう、今日は台湾の話だった。すぐそれてしまう、気ままに
ダラダラ書いているだけだけどそれがけっこう難しい。
仕事の広告コピーを書いてるのと勝手が違う。
長い文章をひとに読ませるというか、ここでは自分に書いているに
すぎないのだが、その自分が納得するものも満足に書けやしない。
また台湾の話からそれていきそうだ。いや、うん、今回の台湾は
台南行きが目的だった。先回は台中に行ってきたから
もう少し足を伸ばしてみようと思って。行き方は台中と同じで
台北駅から台湾の新幹線台湾高速鉄道に乗って約2時間。
途中の景色は緑多い田園地帯と思いきや、けっこう郊外にも
工場やマンションなどが多く見られた。それでも、いつもの
わが東海道新幹線のまだら模様の郊外風景とは趣が違う。
台湾の新幹線の台南駅は在来線の駅から離れていて、
町中までタクシーで30はかかる。初めてのうえにホテルを探しながらだから
余計に遠く感じられたのかもしれない。
一人旅は宿代をかけない。今回は街の中心から少し外れた
町工場と思わしき建物ををリノベしたホテル、「民宿」と
描かれた看板が出ていた。働いている人たちも普段着な感じで
仕事というよりお手伝いって風に気楽で、何でも頼めそうで、
実際滞在中いろいろ世話になったし、悪くはなかった。
booking.comでは点数高かった。
部屋に荷物を置くやいなや町へ飛び出した。
とにかく古い路地のような入り組んだ町を想像して来た。
いわゆる観光地に行きたいわけではなく、ただなんにもなさそうな
ところを歩きたいだけだったんだよね今回。
3月でも暑い、さすが台南。ブルゾン脱いでTシャツになったが
それでも汗ばむ。もう一度6月に来るつもりだけど相当に
気温は上がりそうだ。次は民宿ではなくマシなホテルにしなきゃ。
ホテルから5分も歩くと思ったとおりの路地に迷い込んだ。
大福街、信義街、神農街。カフェあり、雑貨屋あり、床屋あり
まんま民家あり、今にも倒壊しそうな家屋もある。民芸品のような
おもちゃのようなまあ工芸美術品のようなものを製造販売する
小商店が軒を並べる新美術街、そしてその先に広い市場があった。
台湾らしい果物や八百屋に魚屋や肉屋。惣菜屋に飯屋もたくさんある。
魚屋や肉屋の店先ではごっついおっさんが大きな肉をさばいて加工している。
これは世界中の市場の風景と同じで、血だらけの、
思わず目をそらすシーンに出くわすこともある。
台南は古い町だ、魅力は尽きない。
かつては台湾の都であり、立派な建物が多い。孔廊と言われる
台湾最古の大学、市庁舎、市立美術館、司法博物館、林百貨店など
日本統治下の時代に建てられたものもあるらしいが、繁栄を謳歌した
オランダの統治時代の遺産という話のほうが信じられる。
建物は洋風でこれを当時の日本人が作れたとは思えないよ。
ボクが一番好きなのは国立台湾文学館。政府機関で台湾最初の
国家級文学館であり台湾近代文学の資料が収集、整理、展示、
所蔵されている。この建物は日本統治時代の官僚宿舎を
再活用していることが記されていた。
先史時代、オランダ統治時代、明鄭時代、清朝統治時代、
日本統治時代から第2次世界大戦に至るまで異なる支配を受けながら
脈々と受け継がれ多元的に独自の文学へ蓄積され
発展していることに驚かされた。
日本の小説にも影響を受けているところも見受けられ嬉しかった。
帰ったら日本語の翻訳を読んでみたいと思ったが、
こちらに来る直前にネットで、今の台湾文学の日本語訳に
頑張っているまだ若い大学の先生が病気で急逝したというニュースが
出ていたことを思い出した。
この6月は高雄、再び台南に来て、台北に行く。
2019.03.04
あーあ、ため息が出るほど早いよね、今年ももう3月か。
気ばかり疾って何もできてない気がするなあ。
唯一できているのは筋トレくらいかもしれない。これは、
かなり自立できていると思う。昨年12月までプロの先生について
およそ3年近くみっちりやって今年から独り立ちした。
月に6回規則正しく六本木にあるジムに通ったことで、
体はかなり出来上がったと自分でも分かる。鏡で見ても
上半身はガッチリしてきたし、シャツやジャケットも今までのものでは
苦しくなってきた。せっかく伊勢丹で仕立てた何着かのスーツが
無駄になっているのはもったいないが嬉しいことだ。
今年になってから始めた四谷のジム通いも、先生にしっかり
教えてもらって身についたルーティンのおかげで、べつにトレーナーに
頼らなくても一人で続けられているからね、足立先生には本当に感謝している。
仕事と家庭の事情で通い続けるのが難しくなったので、わがまま言って
やめさせてもらったが、これも先生の丁寧で思いやりのある教えがあってこそ。
六本木のジムに入所した時に足立先生が立ててくれた目標は
ベンチプレスで自分の体重を上げられるように、だった。
つまり60キロなんだけど最初20キロも上がらなかったんだ、情けないことに。
それが半年で40キロ、1年で50キロと上がるようになって、1年半立った頃には
ちゃんと60キロを達成できた。信じられなかったと書きたいところだけど
いや、それが不思議ではなくごく当たり前のようにできたのだ。
その後は65キロを10回こなしている。何回か体調の良い日には
70キロも試した。さすがに10回は無理だけど6回まではできた。
腕が異常に細くて力こぶもできなく、夏にはTシャツを着ても
華奢で嫌だったんだ。それが今年は楽しみだね。
年齢のことは余り触れたくないが、トレーニングを始めるとき、
先生にこの歳で始めても大丈夫かと念を押した。
筋肉は何歳になっても成長するから無理をしないでやっていけば
必ず目標は達成できる、が先生の返事だった。
本当にそうなれたわけだけどこれから維持するのが大変だろうな。
せっかく自分でも納得できる体型をものにできたのに失いたくはないが、
まあ、歳が歳だからいつかはトレーニングもできなくなる日が来て、
元の木阿弥に戻るだろう。どれだけ先延ばしできるか。